町を語る人との出会いから始まった移住
大森町の人なら誰でも知っているであろう、
移住の大先輩・三浦るいさんに話を聞かせてもらった。
この町への若手の移住の連鎖は、
彼から始まったといっても過言ではない。
町民の誰からも愛され、
山菜採り、ウナギ釣り、畑、料理に加え、
イノシシとスッポンも捌く。
なんでもこなしてしまう筆者憧れの存在だ。
そんな三浦さんの移住経験談と、これからについて綴る。
~類まれな生い立ち~
彼は愛知県名古屋市で生まれた。
2歳の時に母親が仕事を辞め大学院に進学することになり、
父を日本に残し、母と姉の3人でアメリカに移住した。
アメリカ生活は2~4歳の間と長くはなかったが、
バーモント、モントレー、ミシガンと移り住んだ。
保育園はモンテッソーリ教育という、
公教育とは違うオルタナティブ教育の園に通い。
そこは芸術や体を動かすことなど、内面に働きかける
「心の教育」を大事にしている保育園だった。
それは、”横並びの教育”に疑問を感じていた母親の選択だった。
今でこそ認知が広がっているが、
三浦さんの母親は約30年前にそこに着眼していたのだ。
その後、5~10歳まで名古屋で育つが、
今度は母親の仕事の都合で南アフリカの
プレトリア郊外に移住することになった。
そこでもシュタイナー教育という
オルタナティブ教育の学校に通ったが
大変だったのが寮生活である。
日本生活で話せなくなっていた英語を
また一から学び直すことになった。
最初の1年はうまく話せずに泣く毎日であったが
年を追うごとに言葉も分かるようになり
その後は楽しく過ごすことができた。
その後日本に帰ってきたのが中学1年生の3学期だった。
すぐに高校受験がやってくる。
勉強に追いつくのも大変だろうと、
名古屋の中高一貫校に編入試験を受けて入学した。
それからは部活をやったりと、
割と一般的な日本の学校生活を過ごした。
~とある先生との出会い~
大学進学の時期
今までの海外生活の経験から、
海外に興味があった。
自分の知らない世界を見て
視野を世界に広げたいという思いもあって
東京外国語大学へ進学。
上京をして一人暮らしを始めた。
大学生活にも慣れ
3年生のゼミ選択の時期がやってきた。
ゼミは以前暮らしていた南アフリカについて改めて知りたくなり
当時リアルタイムで起こっていた
移民排斥運動の原因を探る論文を書いた。
そのゼミを担当していた先生で
現在もお付き合いのある舩田さやかさんとの出会いであった。
~大森町との出会い~
就活の時期。
ジャーナリストになりたくて大手の新聞社を色々受けた。
しかし中々内定がもらえない。
就職浪人と休学を合わせて気が付けば入学してから6年が経っていた。
そんな中、進路が決まらない三浦さんに
ある日舩田先生が声を掛けてきた
「今度企画している講演会、るい君も興味があると思うから来てみたら?」
大森町群言堂の創設者
“松場大吉”さんの講演だった。
これが運命の出会いとなる。
講演会の日
普通であれば経営者は自分の会社のことを話すが
彼は全く違った。
会社の話は一切せずに
ひたすらに自分の愛する大森町のことを語った。
”不思議な経営者だ”
と思うと同時に彼の語る
大森町とはどんな町なのか
興味が湧き彼に手紙を書いた。
「丁稚奉公に行かせてください」
想いを込めて書いた手紙は会社内で回覧までされ
夏休みに1ヶ月間松場大吉さんの会社に
受け入れてもらえることになった。
1か月の間に
本社、カフェ、宿泊施設、力仕事など
群言堂にまつわるあらゆる仕事の現場を手伝った。
毎日いろんな人と食事をして
一人で晩御飯を食べた日が無かった。
東京のワンルームのアパートで暮らす環境とまた違い
温かみがあり自分の居場所がある
という安心感を感じることができた。
ここで暮らしながら働けたら人生が豊かになるのではないか
たくさんの刺激を受けそう思うようになった。
その後一度東京に帰り先生に相談をした。
「本当に良かったと思うなら、行ってみるのはどう?」
先生も背中を押してくれた。
「大森町で暮らしながら働いてみたい」
もう一度手紙を書き
松場大吉さん・登美さんをお話をして
群言堂での勤務が決まったのである。
~大森町での生活のはじまり~
仕事が始まってから最初の1年間は
群言堂本店のカフェでキッチンやホールの仕事を任された。
その後コンサートや講演会といったイベントの企画運営や、
登美さんの秘書的な仕事、
またメディア対応をする広報関係の仕事などを経験した。
家は町内にある会社に近い男子寮で
今や大森の伝説の三銃士とも呼べる
鈴木さんや小野寺さんらと、
また、うさころ(犬)、もぐさ(ヤギ)などとも一緒に暮らしていた。
喧嘩もなく毎日が楽しかったという。
この町での休日の楽しみ方もまた都会のそれとは違っていた。
仕事が休みとなれば山菜や魚を採りに行って、
この町に来るお客様をもてなすことも日常茶飯事。
大森町の食材を外から来た人が
美味しいと言ってくれることが嬉しかった。
週に3〜4回は仲間と集まってお酒を飲んで、
仕事と暮らし、遊びが一体となった賑やかな日々を送っていたのだった。
~大森町に馴染むまで~
町に馴染むまでにそう時間はかからなかった。
「群言堂の三浦さん」
として知られていたこともあったが
実はこの町は行事ごとで大忙しなのだ。
誰かがやってくれるわけでもなく全部自分たちで運営する。
昔からそうしてきた町だ。
自治会や消防団、梅まつりや神社の例大祭など
この町では年中何かと行事ごとで大忙しなのである。
町民の方々も移住者に対して閉鎖的ではなく、
積極的にかかわってくれる人が多かった。
町の行事を通して顔を合わせる機会も増え
住み始めてすぐに地域に馴染むことができた。
ここでは人との距離感も都会に比べてうんと近く、
困ったときに手を差し伸べてくれる人もたくさんいる。
そんな生活を全力で楽しめる人には
この町は向いていると感じていると語った。
~三浦編集長の誕生~
移住して3年ほど経って暮らしや仕事に慣れてきた頃
松場大吉さんからある提案を受けた。
「大森町のことを発信する新聞でも作ったらどうだ」
新聞記者になりたかったことや、
以前の手紙の文面を見て
活躍できる場を用意してくれたのだと感じた。
学生時代にいくつか記者のような経験はしてきたが、
メディアをいちから立ち上げることはもちろん初めて。
どんな紙で作るのか、内容はどうするのか。
悩みに悩んで手をかけ始めてから発行するまで約半年の時間を要したが
日常で出会った人の話や出来事をそのまま記事にすることにした。
こうして大森町での暮らしを発信するフリーペーパー
”三浦編集長”が誕生した。
その後この新聞は約10年に渡り大森町で発行され
町民に愛される地元紙となっていった。

三浦さんはフラメンコギターがプロ並みに上手い。
一度大森町にアーティストが来た際に
前座で三浦さんが弾くギターを聞いたことがあったが、
特にギターを弾く右手が私の知る
アルペジオの何倍もの動きをしていた。
そんな三浦さんは大森町に移住後も
学生時代から続けていたフラメンコギターの演奏を
空き時間を活用してかつての仲間と関西圏などで続けていた。
そこでまだ当時学生だった奥様と出会うことになる。
イベントの打ち上げで同郷ということがわかり意気投合。
その後お付き合いに発展した。
最初は遠距離での付き合いだったが、
気が付いた時には
”今度島根の企業の最終面接だよ”
と島根に来る段取りを自ら進めてくれていたという
その後一緒に暮らし、結婚。
二人の子宝にも恵まれた。
この町での子育てはコミュニティの中で育てる安心感がある。
三浦家は夫婦どちらも移住者で周りに親戚がいないが、
この町では周りの人が自分たちを知ってくれていて、
子供たちのことも名前で呼んでくれる。
いざとなれば子供を預かってくれる頼れる先がいくつもある。
子どもたちも、いろんな大人との「斜めの関係」の中で、
人を信頼する気持ちが育まれているのが見ていてわかるという。
ちょっと家族が拡張したような、
この町の環境は子どもの成長にとって
とても良いことであると思っている。

この町に移住してもう15年目。
この町で長い期間過ごしてきた三浦さんに
最近とこれからを聞いてみた。
まずは最近のこと
三浦家ではどうやら新しい家族が増えたようだ。
鶏のヒナを3匹受け入れていた。
この町では時々鶏の里親募集が行われる。
ちょうど余った鶏小屋もあり即決したようだ。
採卵はまだこれからだが
卵が食べれる生活が待ち遠しいという。
大森町では畑をやったり、
自分の手で生産活動をしている人が多い。
三浦さんも自分の手でコントロールできるものごとを
どんどん増やすことで人生を豊かにしていきたいと語った。
そしてこれからについて。
ライフワークとして
今までやってきた自分の発信活動の
「第二章」を形にしていきたい。
彼はそう語った。
この町で15年を過ごした
アラフォーになった三浦さんがどんな書き物をするのか。
読める日が来るのを切望するばかりである。

